2011年8月17日(Wed.)に歌った曲
1時間部屋を借りる。10年ぶりで勝手が全く分からず、人に付き添って貰ってあれこれ手続きしてもらった。
・粉雪 / レミオロメン
声の出し方には「地声」「裏声」そしてその中間の「ミックスボイス」があるらしい。最近の邦楽は男性ボーカルでも音程が高い物が多いそうだ。これもその一つなのだろう。「裏声」の出し方がまったく分からず、サビで幽霊のような声が出て、照れ隠しで笑った。
・オンリーロンリーグローリー / Bump Of Chicken
速い。言葉がギチギチに詰まっている。難しい歌だと気付いたがもう遅いので全力で歌った。自分の下手さに落ち込んでいったが、正直楽しい。
・Get Wild / TMNetwork
歌い出しでいつも原曲を頭で再生して喉をチューニングするのだが、それでも「あぁぁすふあぁぁルト タイヤをきりつけながら」と出だしで訳の分からない声を出してしまう。映像の雰囲気が少し古かった。
・なごり雪 / かぐや姫
本当は22才の別れが歌いたかったのだが無かった。やはりきちんと歌えない。喉は意外とまだ元気だ。
・I Love You / 尾崎豊
中盤の「ふーうーうー」というだけの部分で、初めて「裏声」を出す事に成功、した気がする。そうか、コレを日本語歌詞がある部分でも適応すればいいのか、と思った。しかし雰囲気とかノリって大事だ。ありがとう尾崎。少しだけ歌い方が分かった気がするよ。
・ダンシング☆サムライ / mathru
最後に「サームーライ!腹斬れ貴様ぁ!」でシメた。とても難しい曲で、大失敗だった。まあ楽しかった。
2011年8月18日 (Thu.)に歌った曲
あまりにも楽しかったので二日連続で行ってしまった。今度は録音機を持って行った。受付で「使って良いか」とぼんやり聞いたところ「いいですよ」と意外にもさっぱりとした返事が返ってきたので、自分の歌唱の見直しのため、遠慮無く録音させて貰った。
・愛は勝つ / KAN
PVで歌手本人と思しき人が元気よく楽しそうに歌うので、自分を盛り上げる為敢えて彼に乗せられるようにして気分を高めた。歌は下手だった。
・空も飛べるはず / スピッツ
全然空を飛んでいなかった。奇跡も起きない。いつか気持ちよく歌ってみたい。録音に少し失敗する。以後やり方を改善する。
・カレーライス / 遠藤賢司
キーが低く、歌いやすかった。本人の巧みな歌い回しは再現不可能だが、ネコやカレーや切腹の話を淡々と歌うのは気持ちよかった。
・風 / はしだのりひことシューベルツ
単純なメロディの繰り返しの中に少しずつ変化がつくような曲なので、うろ覚えではきつかった。実際、間違って歌った。
・ロックンロールは鳴りやまないっ / 神聖かまってちゃん
音程があるのかないのか分からない箇所が多く、実はしっかり歌うには難しい曲だと思った。途中で原曲が思い出せなくなり、挫けて途中終了してしまった。いつか歌い直したい。録音にも失敗した。
・BE WITH YOU / GLAY
キーが高い。初めから高い。テル高い。
・討匪行 / 誰だっけ?
軍歌である。とても歌いやすいメロディーであった。いいクッションになった。間奏が長いので少々暇だった。
・Marionette / BOOWY
英語の部分を普段きちんと聞いていないので、ふにゃふにゃしながら歌った。全然自分の気分で踊ってない。
・僕らの永遠 〜何度生まれ変わっても、手を繋ぎたいだけの愛だから〜 / WEAVER
メロディうろ覚えで歌えなかった曲その二。最後だったので録音機は片付けてあったが、かなり残念な永遠になっていたと思う。
総じて、歌うと自分は凄く落ち込むということが分かった。恥ずかしさに対するストッパーが相当強いようだ。あと自分の裏声はとても気持ち悪いと思っていたが、録音を後で聞くとそうでもなかった。もっと自信を持って歌いたいと思う。
あと、ちゃんとペースを考えて通おうと思った。お金もかかるしね。
2011年08月19日
カラオケ遊びを覚えた - ボーカル訓練のつもりだ
posted by 卯月 遙香 at 18:34| Comment(7)
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挙動不審になる僕
僕はネットでも日常でも、度々挙動不審になる。理由は簡単だ。自信が無いから。
このブログには精査して、精査して、自信を持って言えることだけを書こう、そんなつもりで再開したんだった気がする。
でも待て、態度や意思、意見や何派とかいうこまごまとした事が、常に明確に定まっていないといけないというのも、極端だ。そんなヤツいるのか。いたとして、そいつは人に意見を言われて、「オレは間違ってない」とか「どうやら間違った事を言った」とか、すぐに自己肯定できたり反省できたりするのかもしれない。そうなると、その人はある種の強さを持っているのかもしれない。
だが、人間そんないつもフルパワーで動けなくないか?僕は無理だ。
日常でヘマをしないように、常にフルパワーで動く。疲れる。隠れて休む。また表に出る。フルパワーで動く。疲れる。もう嫌になる。僕は最近こんなサイクルで生きていた。これはイカンと、素直に思った。
ヘマをしてもいいのだ、人間安定した生き方をしようとすれば、せいぜい70%、いや50%くらいの力しか出ないのではないか。ここでいう100%の力とは、100メートル走の時の様な力の出し方で、全身全霊であるがすぐにバテる感じだ。それに対し50%は無理のないリズムで歩いている感じ。僕は、100%で人前に出ては、バテていた。背伸びして良く見られたい願望が見え見えだ。
軽い生き方を会得したい。僕には必要な気がする。間違ってもいいのだ。「君の言ってることはおかしいよね」と指摘され、うんともいいえとも言えない状態の時、へへへと笑って受け流すふてぶてしさを、他人には許すのに自分には許さない。おかしいっていうか、疲れる。この文章も、おかしいかもしれないけど、こんなラフな「感じたこと」も恐れをなして言えない人間なんて、病んでいる。
とりあえず、挙動不審になるよりは、「へへへ」と笑って誤魔化す人間に、なってもいいんじゃないかと、最近思ってる。そっちの方が、楽だ。間違ってる事に怯えなければ、出来るはずだ。人は人生で何回間違うか分かったものじゃないんだし。
このブログには精査して、精査して、自信を持って言えることだけを書こう、そんなつもりで再開したんだった気がする。
でも待て、態度や意思、意見や何派とかいうこまごまとした事が、常に明確に定まっていないといけないというのも、極端だ。そんなヤツいるのか。いたとして、そいつは人に意見を言われて、「オレは間違ってない」とか「どうやら間違った事を言った」とか、すぐに自己肯定できたり反省できたりするのかもしれない。そうなると、その人はある種の強さを持っているのかもしれない。
だが、人間そんないつもフルパワーで動けなくないか?僕は無理だ。
日常でヘマをしないように、常にフルパワーで動く。疲れる。隠れて休む。また表に出る。フルパワーで動く。疲れる。もう嫌になる。僕は最近こんなサイクルで生きていた。これはイカンと、素直に思った。
ヘマをしてもいいのだ、人間安定した生き方をしようとすれば、せいぜい70%、いや50%くらいの力しか出ないのではないか。ここでいう100%の力とは、100メートル走の時の様な力の出し方で、全身全霊であるがすぐにバテる感じだ。それに対し50%は無理のないリズムで歩いている感じ。僕は、100%で人前に出ては、バテていた。背伸びして良く見られたい願望が見え見えだ。
軽い生き方を会得したい。僕には必要な気がする。間違ってもいいのだ。「君の言ってることはおかしいよね」と指摘され、うんともいいえとも言えない状態の時、へへへと笑って受け流すふてぶてしさを、他人には許すのに自分には許さない。おかしいっていうか、疲れる。この文章も、おかしいかもしれないけど、こんなラフな「感じたこと」も恐れをなして言えない人間なんて、病んでいる。
とりあえず、挙動不審になるよりは、「へへへ」と笑って誤魔化す人間に、なってもいいんじゃないかと、最近思ってる。そっちの方が、楽だ。間違ってる事に怯えなければ、出来るはずだ。人は人生で何回間違うか分かったものじゃないんだし。
posted by 卯月 遙香 at 18:02| Comment(0)
| 日記
2011年08月08日
振動するという事 - なぜ私は歌うのか
ずっと思っていた。世の中には人を傷つける歌が多い。
ここで話題にしたいのは、歌は罪であるとか、傷つく方が悪いとか、そういう「悪いヤツ探し」ではない。
私の歌は、人を傷つけないものが多い。それには恐らく理由があり、無意識に「今までの自分の傷つけられた経験を、自分の歌を聴く人に同じように与えたくない」という思いがあったからだと思う。だから、「過激な主張のある歌」を、知らず知らずのうちに避けていた。
しかし、ここで疑問が湧く。果たして、過激さの多い「歌」や「自己表現」「パフォーマンス」といったものは、人を傷つけるばかりなのだろうか。これは勿論違うと思う。同じくらい、人を勇気づけたり、道しるべになったり、しているのだ。
ここで言いたいのは、歌は総合するとポジティブである、という事ではない。私は実は、歌、というか自己表現の中でも優秀なものとは「ポジティブ」と「ネガティブ」は半々で、足すとプラマイゼロであるのだと思う。どちらかというと、「人々の心がネガやポジにぐらぐらと振動する事」自体に、意味や価値があるのではないか。心が何かを感じ動いている、つまり「感動」とは、この振動の事をいうのでは無かろうか。
さて、「ぐらぐらと振動する」事の意味について考えたい。唐突に大きすぎる話になるが、生きるとは振動するということだと思う。そして、人間だけでなく、地球は生きている。新陳代謝していると言ってもいい。流動している。地面の下にはプレートがうごめき、地表では生命が躍動する。
もっとデカイ事を言おう。宇宙とは生きている。宇宙自体が振動している。絶えず変化している。それはエネルギーによるものである。もし宇宙が振動をやめるとしたら、それはビッグバンで生まれた宇宙がしぼんで、エネルギーが尽き、全て無に還った時である。振動しないことは、無である。
ここで疑似カルト宗教的視点から一卓上音楽屋さん視点へ戻る。歌で人の心を揺さぶることは、悪いことではないのだ。聞き手が感じるのがネガティブだろうがポジティブだろうが、私が自分なりに洗練させて嘘偽りが無い言葉だとそれなりの自信を持って発した言葉なら、それが人々を振動させているのであり、それに意味はある。エネルギーを帯びているのだ。全く振動の無い歌など無であり、宇宙に必要がないのだ。
勿論、振動にも、幅の大きい物、ゆったりしたもの、のこぎり波や矩形波や正弦波など、色々あるのだろう。ゆったりして和やかな歌にも、「心地良い」と思わせる物には何かしらの、振動があるのだと思う。必ずしも過激である必要はない。過激なだけが振動ではない。これは、意識しておきたい。私の歌には、それすらも含まれてないのだ。
ところで、ネットなどでよく、お互い相手の立場をないがしろにし、ひたすら自分の一方的な持論をぶつけ合って、まるでネガティブ感情増殖炉みたいになってしまっている人々を見る。あれは振動ではない。マイナスの値で波形が止まっており、実質直線である。ああいう物は本当に不毛で、だからこそ自分の言葉が「ネガティブ増殖炉」でなくあくまで「振動装置」になるべきだという事は、心に留めたいと思う。
さて、ここまでで大体結論が見えているかと思われるが、私が言いたいことを一言で表すと、「歌は人の心を揺さぶってなんぼ。人生はマイナスとプラスの連続だ」では、ない。正直、私はしんどい。例えプラスがあっても、マイナスがシンドイので、もう振動しなくて良いので、宇宙のゴミカスでいいので、喜びも哀しみもない空間で、死ぬまで無表情で飲んだり食ったりしていたい。そんな、後ろ向き思考なのでした。生きる事が、そして表現する事が振動する事であるなら、私は生きるのに若干疲れている。休みたい。
だいぶ理屈がめちゃくちゃになってしまったが、要するに、私がTwitterで度々発する「精神と時の部屋(リスク無しバージョン)に篭もりたい」というのは、こういう状態である。
ここで話題にしたいのは、歌は罪であるとか、傷つく方が悪いとか、そういう「悪いヤツ探し」ではない。
私の歌は、人を傷つけないものが多い。それには恐らく理由があり、無意識に「今までの自分の傷つけられた経験を、自分の歌を聴く人に同じように与えたくない」という思いがあったからだと思う。だから、「過激な主張のある歌」を、知らず知らずのうちに避けていた。
しかし、ここで疑問が湧く。果たして、過激さの多い「歌」や「自己表現」「パフォーマンス」といったものは、人を傷つけるばかりなのだろうか。これは勿論違うと思う。同じくらい、人を勇気づけたり、道しるべになったり、しているのだ。
ここで言いたいのは、歌は総合するとポジティブである、という事ではない。私は実は、歌、というか自己表現の中でも優秀なものとは「ポジティブ」と「ネガティブ」は半々で、足すとプラマイゼロであるのだと思う。どちらかというと、「人々の心がネガやポジにぐらぐらと振動する事」自体に、意味や価値があるのではないか。心が何かを感じ動いている、つまり「感動」とは、この振動の事をいうのでは無かろうか。
さて、「ぐらぐらと振動する」事の意味について考えたい。唐突に大きすぎる話になるが、生きるとは振動するということだと思う。そして、人間だけでなく、地球は生きている。新陳代謝していると言ってもいい。流動している。地面の下にはプレートがうごめき、地表では生命が躍動する。
もっとデカイ事を言おう。宇宙とは生きている。宇宙自体が振動している。絶えず変化している。それはエネルギーによるものである。もし宇宙が振動をやめるとしたら、それはビッグバンで生まれた宇宙がしぼんで、エネルギーが尽き、全て無に還った時である。振動しないことは、無である。
ここで疑似カルト宗教的視点から一卓上音楽屋さん視点へ戻る。歌で人の心を揺さぶることは、悪いことではないのだ。聞き手が感じるのがネガティブだろうがポジティブだろうが、私が自分なりに洗練させて嘘偽りが無い言葉だとそれなりの自信を持って発した言葉なら、それが人々を振動させているのであり、それに意味はある。エネルギーを帯びているのだ。全く振動の無い歌など無であり、宇宙に必要がないのだ。
勿論、振動にも、幅の大きい物、ゆったりしたもの、のこぎり波や矩形波や正弦波など、色々あるのだろう。ゆったりして和やかな歌にも、「心地良い」と思わせる物には何かしらの、振動があるのだと思う。必ずしも過激である必要はない。過激なだけが振動ではない。これは、意識しておきたい。私の歌には、それすらも含まれてないのだ。
ところで、ネットなどでよく、お互い相手の立場をないがしろにし、ひたすら自分の一方的な持論をぶつけ合って、まるでネガティブ感情増殖炉みたいになってしまっている人々を見る。あれは振動ではない。マイナスの値で波形が止まっており、実質直線である。ああいう物は本当に不毛で、だからこそ自分の言葉が「ネガティブ増殖炉」でなくあくまで「振動装置」になるべきだという事は、心に留めたいと思う。
さて、ここまでで大体結論が見えているかと思われるが、私が言いたいことを一言で表すと、「歌は人の心を揺さぶってなんぼ。人生はマイナスとプラスの連続だ」では、ない。正直、私はしんどい。例えプラスがあっても、マイナスがシンドイので、もう振動しなくて良いので、宇宙のゴミカスでいいので、喜びも哀しみもない空間で、死ぬまで無表情で飲んだり食ったりしていたい。そんな、後ろ向き思考なのでした。生きる事が、そして表現する事が振動する事であるなら、私は生きるのに若干疲れている。休みたい。
だいぶ理屈がめちゃくちゃになってしまったが、要するに、私がTwitterで度々発する「精神と時の部屋(リスク無しバージョン)に篭もりたい」というのは、こういう状態である。
posted by 卯月 遙香 at 18:17| Comment(0)
| 日記
楽器を捨てよう
今はっきりとしたが、私が何かに焦りや危機感を感じ、何かか足りないと思うその正体は「それ以上後ろに下がると死ぬぞ、終わりやぞ」という追い詰められ感だと思った。非常にぬるい湯に浸かっている。
この歳でここまでぬるい環境の人は稀で、それは何でもやりたい事が出来るという事でもある。しかし、追い詰められて初めて人は何百倍速で人生についてやっと本気で考え出すのだということを、最近知ったような気がする。学生が社会に出た時の摩擦熱みたいな物が、私に無い。
だから、「誰にも(世間とか家族とか、金銭事情とかに)急かされない」生活でどうやって自分を急かすか、その技術の鍛錬に最近は全力を注いでいた。そこそこ上手くはなってきた。でも、やっぱり、社会の荒波にもまれてきた人たちの、百分の一。ぬるい。所詮、コドモオトナの遊びレベルなのだ。
問題は、パワーが出ない事の他に、何でも出来はするがやることの軌道修正が出来ない、というのもある。「これでいいのか?進むべき道はこっちか?」という判断を、様々な経験を元にその都度立ち止まってすることができない。思い込んだら訳の分からない方向に進みまくってしまう。
問題や目的、そこから導き出されるやるべき事を、紙に書く。纏める。可視化する。そして実行する。そんな事を幾度となくやってきたけど、結局私は迷走している。端的な例を出すと、働いたことが一度しかないので、自分の将来がどれだけやばいのか、ひいては日本の経済がどれだけやばいのか、ほぼ考えられていない。世界が見えていない。
無職である。病気である。そのほか生活や就職などに差し支えるであろう特徴を、いくつか兼ね備えている。療養期間という名目で休んでいる。しかし世間と接していない。どんどん感覚が人とずれていってる。そうすると、療養に於いて何が一番最優先か、その中身も目的意識も薄らぐのだ。音楽をやっている場合ではない、いややっててもいいんだけど距離の取り方がおかしい。おかしいと思いながら毎日やってる。勉強も一応しているが、気休めである。資格が正直どれくらい役に立つのか、そういう計算は一切出来ていない。
目下目的を、「世界と接する」にするべきかもしれない。ネットは最終防衛ラインである。一応そこには、人がいる。ただ心許なさを例えると、藁にすがっているレベルである。それでギリギリ、自分という人間を保っている。外に出よう。自分の軌道を修正しよう。バイトはまだ無理かもしれない。でも、生活を正して、作業所へ行こう。そう、実は私は障害者ということになっているので、「作業所」と呼ばれる福祉施設が利用可能なのだ。行こう。
と思ったら今日は休みだったかもしれない…。まあ不安の正体は分かった。私は人に会うべきだ。孤独を誤魔化し誤魔化し、努力を重ね向上心を失わないのは無理だ。人間ってそう出来てるらしい。
楽器を捨て、街に出よう。
追記 - 10:27
改めて読み返していくつか追加したい事があったので、心残りが無いように書いておく。
私は、決して孤独ではない。しょっちゅう電話で話してくれる遠方の「知り合い」(敢えて関係をぼかすが、私は親密だと勝手に思っている)がいるのである。其の人がいるから私は完全には孤独で無く、方向修正が上手くいかないものの「努力が継続できた」のは其の人といつも接してくれる家族のおかげと言っていい。あとはTwitterなどのネットなんかを「仮の外界」に見立てて、自分の周りに「バーチャル世の中」みたいなのを作ってなんとか自分を保っていたのが、今までの私である。
私に必要なのは、「リアル世の中」の厳しさである。しかし多分、すぐにそれに触れるとダメになるだろう。目に見えている。その橋渡しを期待しているのが、「作業所」である。適度に他人であるが、私が病気であることも分かってくれている。謂わば人付き合いの練習台である。
そんな訳で私は孤独ではないが、今のぬるさに浸かってたら、いずれ本当に駄目な人間になる、そんな気がするのである。そうなる前に、私は立ち上がりたい。なにより、常日頃から自分の行為に疑問ばかり感じながら努力を重ねても、何も実りそうにない。
結論はやっぱり、「外に出よう」だけど。
この歳でここまでぬるい環境の人は稀で、それは何でもやりたい事が出来るという事でもある。しかし、追い詰められて初めて人は何百倍速で人生についてやっと本気で考え出すのだということを、最近知ったような気がする。学生が社会に出た時の摩擦熱みたいな物が、私に無い。
だから、「誰にも(世間とか家族とか、金銭事情とかに)急かされない」生活でどうやって自分を急かすか、その技術の鍛錬に最近は全力を注いでいた。そこそこ上手くはなってきた。でも、やっぱり、社会の荒波にもまれてきた人たちの、百分の一。ぬるい。所詮、コドモオトナの遊びレベルなのだ。
問題は、パワーが出ない事の他に、何でも出来はするがやることの軌道修正が出来ない、というのもある。「これでいいのか?進むべき道はこっちか?」という判断を、様々な経験を元にその都度立ち止まってすることができない。思い込んだら訳の分からない方向に進みまくってしまう。
問題や目的、そこから導き出されるやるべき事を、紙に書く。纏める。可視化する。そして実行する。そんな事を幾度となくやってきたけど、結局私は迷走している。端的な例を出すと、働いたことが一度しかないので、自分の将来がどれだけやばいのか、ひいては日本の経済がどれだけやばいのか、ほぼ考えられていない。世界が見えていない。
無職である。病気である。そのほか生活や就職などに差し支えるであろう特徴を、いくつか兼ね備えている。療養期間という名目で休んでいる。しかし世間と接していない。どんどん感覚が人とずれていってる。そうすると、療養に於いて何が一番最優先か、その中身も目的意識も薄らぐのだ。音楽をやっている場合ではない、いややっててもいいんだけど距離の取り方がおかしい。おかしいと思いながら毎日やってる。勉強も一応しているが、気休めである。資格が正直どれくらい役に立つのか、そういう計算は一切出来ていない。
目下目的を、「世界と接する」にするべきかもしれない。ネットは最終防衛ラインである。一応そこには、人がいる。ただ心許なさを例えると、藁にすがっているレベルである。それでギリギリ、自分という人間を保っている。外に出よう。自分の軌道を修正しよう。バイトはまだ無理かもしれない。でも、生活を正して、作業所へ行こう。そう、実は私は障害者ということになっているので、「作業所」と呼ばれる福祉施設が利用可能なのだ。行こう。
と思ったら今日は休みだったかもしれない…。まあ不安の正体は分かった。私は人に会うべきだ。孤独を誤魔化し誤魔化し、努力を重ね向上心を失わないのは無理だ。人間ってそう出来てるらしい。
楽器を捨て、街に出よう。
追記 - 10:27
改めて読み返していくつか追加したい事があったので、心残りが無いように書いておく。
私は、決して孤独ではない。しょっちゅう電話で話してくれる遠方の「知り合い」(敢えて関係をぼかすが、私は親密だと勝手に思っている)がいるのである。其の人がいるから私は完全には孤独で無く、方向修正が上手くいかないものの「努力が継続できた」のは其の人といつも接してくれる家族のおかげと言っていい。あとはTwitterなどのネットなんかを「仮の外界」に見立てて、自分の周りに「バーチャル世の中」みたいなのを作ってなんとか自分を保っていたのが、今までの私である。
私に必要なのは、「リアル世の中」の厳しさである。しかし多分、すぐにそれに触れるとダメになるだろう。目に見えている。その橋渡しを期待しているのが、「作業所」である。適度に他人であるが、私が病気であることも分かってくれている。謂わば人付き合いの練習台である。
そんな訳で私は孤独ではないが、今のぬるさに浸かってたら、いずれ本当に駄目な人間になる、そんな気がするのである。そうなる前に、私は立ち上がりたい。なにより、常日頃から自分の行為に疑問ばかり感じながら努力を重ねても、何も実りそうにない。
結論はやっぱり、「外に出よう」だけど。
posted by 卯月 遙香 at 08:40| Comment(0)
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2011年06月07日
あいつんの、あっぷすとあって
App Storeのレビューは心がすさむ。まあ金掛かる物なので参考に見はしますが。悪いと言うにしろ良いと褒めるにしろ、礼儀とか客観性とか、そもそも「レビュー」の意味とか、少しだけ考えて欲しい。この現象が日本特有だと聞くとげんなりする。
げんなりするのでフリーソフトならレビューガン無視で速攻ダウンロードする。自ら手間掛けて体感した方がずっといい。
関連して思い出したのだが、昔Twitterのタイムラインで見かけた人たちによる、某無料Twitterクライアント作者さんへの「使わせてやってる、という上から目線ウザイ」という斜め下方向に勘違いしてかっとんでる冒涜を見て、やりきれない気持ちになったのが未だに抜けない。「使ってやってる」という自らの上から目線にはなんの疑問も感じないのか。
などと、Twitterに書けない長文をブログに書くという当初の目的を初実行してみましたが、なんかタダの愚痴だなあ…。上手くいかない。もうちょっと慣れが必要そうです。
げんなりするのでフリーソフトならレビューガン無視で速攻ダウンロードする。自ら手間掛けて体感した方がずっといい。
関連して思い出したのだが、昔Twitterのタイムラインで見かけた人たちによる、某無料Twitterクライアント作者さんへの「使わせてやってる、という上から目線ウザイ」という斜め下方向に勘違いしてかっとんでる冒涜を見て、やりきれない気持ちになったのが未だに抜けない。「使ってやってる」という自らの上から目線にはなんの疑問も感じないのか。
などと、Twitterに書けない長文をブログに書くという当初の目的を初実行してみましたが、なんかタダの愚痴だなあ…。上手くいかない。もうちょっと慣れが必要そうです。
posted by 卯月 遙香 at 09:54| Comment(0)
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